【 ROMA 】
ローマから1時間、2009年に大地震が起きた"L'aquila"で2019年3月30日、"精神POP-LIVE"をするVaiwatt
こんな興味深い記事を発見した!!
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「既成のアカデミズムの枠にはまらず、またチネチッタなどの映画産業からも距離を置いて、ストリートという、人々のリアリティからアートが生まれた。」
「なんとなく話すうちにプロジェクトが生まれるというナチュラルさで、何の圧力もない、自由なプロジェクトが次々と生まれるという感じかな」
「はっきり言って、投資で新しく造られる店には『文化』はまったくないよね」
記事を見る限りは音楽家や絵描きや写真家の理想の地な気がするゾ!!
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(中略)
イタリア音楽シーンと冒頭で書きながら、こんな話からはじめたのは、世界を当たり前に覆う経済システムからは距離を置くローマのアンダーグラウン ド・カルチャーシーンには、たとえばマルチェッロ・フォンテを代表するような、個性的な逸材がかなりの数で存在しているように思うからです。ローマにも、 それだけで食べていくのはかなり難しいと分かっていながらも、詩や演劇、音楽など、『芸術』と呼ばれるものに魅入られて、ストラッグルな人生を送りながら創作に対峙するアーティストたちが数多く存在する。
(中略)
本来文化の流れというものは、誰かが計画的に採算を考えて人工的に作るものではなく、自然発生的にドドドッと満を待して湧き出るのが理想です。そしてロー マには、政治や社会の変化による多少の危機感はあっても、まだまだそんな非近代的な、いわば古めかしい(非常に良い意味で)、わたしにとっては好ましい ヒューマンでオルタナティブな緩みがあちこちに残っている、と言ってもいいでしょう。
(中略)
ピニェート
いかにもローマの庶民が住む街、というネオリアリズムな街角を背景に、ローカルマフィアが跋扈することでも有名だった物騒な地区から、今では流行に敏感なラディカルシックな若者たちが集まる街並みになり、その動きはさらに東へ、東へと郊外へ向かって広がりを見せています。
ところでイタリアの音楽界では、今がまさにインディ・ポップの黄金期とされ、新しい音楽の動きはすべてインディ から生まれる、と言われている。名前をあげればキリがないのですが、その代表的なポップ・ミュージシャンは、Cosmo(コスモ)、EX- Otago(エックスーオターゴ)、I cani(イ・カーニ)、Thegiornalist(ザジャーナリスト)というところでしょうか。そして、そのインディ・ポップ爆発のきっかけを作り、イタリア中でブレイクしているのが、かつてピニェートにふわっと集まってきたアーティストのひとりであるCalcutta(カルクッタ)でした。「彼、このあたりでよく見かけたよ」と、数年前まで街角の風景だった彼が、いまや正統派のカンタウトーレとしてイタリア版ローリング・ストーンの表紙を飾るという具合です
しかしながら、イタリアでは重要視され、事あるごとに語られるこのカンタウトーレ=シンガーソング・ライターの存在感 が、異文化を持つ外国人のわたしには、いまひとつピンとこず、どうやらわたしが考えるシンガーソング・ライターとはニュアンスが違うようにも感じる。そこ で、イタリアのカンタウトーレをもっと知るために、かねてからお話を聞きたかった、ジャズ、サイケデリックを中心に、音楽のことなら何でも知り尽くしてい るピニェート音楽シーンのオーソリティ、ルーカ・コッレピッコロに、「カンタウトーレとは、いったいどのような存在なのか、そしてその変遷は?」というテーマで話を聞くことにしました。
コッレピッコロは音楽家族に育った影響で、子供の頃から、ザ・クラッシュ、デビッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、イ ギー・ポップ、フランク・ザッパなどを聴いて成長、10代の半ばから音楽ジャーナリストとして、月刊音楽誌に音楽批評を書くほど成熟した感性を持つ人物で す。その後、主要紙の音楽批評、国営放送Rai3のラジオ番組を担当するなど、イタリアの音楽シーンでキャリアを積み、現在はピニェートをベースに、イン ディのレーベルとディスクのディストリビュート(Good Fellas)に関わっています。
レジスタンス
「そもそもピニェートという場所は、ローマの典型的な庶民の街角で、またパルチザンたちのレジスタンスの地でもある。政治的な闘争が数多く繰り返されてきた街でもあるんだよ。ピエールパオロ・パソリーニの『アッカトーネ』はもちろん、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』が撮影された場所だということは有名だよね。サン・ロレンツォ、テスタッチョとともに、ローマでも数少ない、真正のローマの庶民のアイデンティティを持ち、その『魂』を体現する人々が今でも多く生活している。例えばバールなんかで75歳以上の人々と話すと、戦時中、米国に爆撃されたこの地区が、戦後どんな風に再建されたかを、喜んで話してくれるよ。そして、あくまでも庶民的に外から訪れた者たちを歓迎するのが、ピニェートという街のメンタリティだと思う」
(中略)
音楽というアスペクトがピニェートの顔を変えていったとも言えるね。たくさんの若い子たちがこの地区に越してき て、外国人たちも多く住むようになった。たとえばベルリンのノイケルン、クロイツベルグが最もエネルギッシュだった15年前あたり、あるいはパリのアン ダーグラウンドの雰囲気をも漂わせていたんだ。やがて物書きや画家、インディペンデントの映画監督たちが続々と集まり、地区そのものがアートへと向かって いった。バールで朝食をとっているときに偶然会った誰かと、なんとなく話すうちにプロジェクトが生まれるというナチュラルさで、何の圧力もない、自由なプロジェクトが次々と生まれるという感じかな」
「つまり、ローマの既成のアカデミズムの枠にはまらず、またチネチッタなどの映画産業からも距離を置いて、ストリートという、人々のリアリティからアートが生まれた。音楽界にも映画界にも、また作家、ジャーナリストにも、ピニェートからはじまってイタリア中でポピュラーになったアーティストた ちがたくさんいるよ。正直にいうなら、最近はその、当時の迸るようなエネルギーが停滞している感じはするけれどね。ピニェートには新しい世代の新しい循環 が必要だとは思う。ブームに乗って、新しいバールやカフェやクラブが続々出来て、はっきり言って、投資で新しく造られる店には『文化』はまったくないよ ね」
記事全文は>コチラ
来年、イタリア遠征!!
ピニェートも見学しようと思います。
Vaiwatt
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